SES転職します

高校を卒業して以来、2年間弱務めたSESを転職しようと思っています、心境を忘れてしまわないうちに記録として残しておこうと思います。

 

転職先からは内定を貰い、自社には転職する意思を相談しました、常識知らずですみません。

僕の所属している会社は20人規模の零細でとても小さいです。

 

社長に転職を打ち明け、話し合いは3時間弱に及びました。

社長から最善の職場とは何か、エンジニアの終着点とはどこかという話をされました、社長はSESを十数年経営し様々なエンジニアを抱え、社長自身、1970年代にアセンブラ、Cで開発を行ってきた人なので、エンジニアやIT業界に対して知悉しています。

 

そんな話を聞いていくうちに、社長が作った会社、そして僕が所属しているこの会社は社長が理想としている会社なんだと考えました。

 

何故かというと、まず社長の経歴からそのことが読み取れるからです、社長が新卒として就職する時期にMicrosoftなどのIT企業が立ち上がり始め、社長自身、開発の職に就きたいと考えていたみたいです、しかし当時の日本の大企業に就職する場合、営業やサポートなどの開発以外の職務に就く確率が高いらしく、社長はあえて社員数が100名以下の中小企業を選択し、就職しました。

 

社長はハードとソフトのスキルを身に着けることを考え、ハードの基盤開発を行う会社に就職し、転職してBIOSファームウェアの開発を行う企業に就職しました。

 

しかし後者の会社では社内競争が激しく、学歴や能力の差で開発職には就けず、開発に固執した余り、役員から目を付けられ製品サポートの業務に回されたらしいです。

 

しかし社長はなんとかして開発をするために、夜間と休日に当時は珍しかった派遣会社を利用し、通信制御やカーネルの開発をしていました。

そして派遣業務で得た資金とサポート業務で得た、納品先とのコネクションを利用して会社を立ち上げました。

 

つまり、社長は基盤やカーネルなどの大規模の開発に就くために苦心した経験が会社設立の原点ということになります、社長はエンジニアは常に開発を行うべきだと主張しました、営業やマネジメントではなくひたすら開発だと。そしてその主張の理由は過去の体験から来ています。

 

僕は高校3年の2月からITの勉強をしてなんとか今までやって来ましたが、社長からしたら、当時では考えられないと思います。僕は結局SESにいてWeb3割、インフラ7割の経験をしましたが、今の会社と時代のおかげでそうなっていると思います、今の会社には本当に感謝ですね、ありがとうございます。

 

といってもIT企業も増え、普通科の高卒であろうとITの開発がしたいという思いが強ければ、それを見てくれる企業さんも多いと思うので、もし開発にチャレンジしたい学生がいれば学歴や経歴は気にせずガンガンチャレンジすればいいと思います。

 

僕の最後の仕事として、来年までマスタの開発があります、ここで潰れて鬱にならない様に頑張ります。(フラグ)

光あるうちに光の中を歩め

 

この投稿ではレフ・トルストイ光あるうちに光の中を歩めについて書こうと思います。

 

まず断っておきたいのですが、僕の文学や歴史、宗教についての知識はほぼ0です。

 

読書量も少なく年50冊程度です。

そんな状態ですが、思ったこと気になったことを感想としてメモしていこうと思います。

感想

チェルトコフは巻末の「弁明の辞」でこの作品が人生ならびに人間行為の最も根本的な問題に触れていると述べています。

 

まさにその人生、そして人間行為の根本についての問題について、僕は衝撃を受けました。

 

この作品が神への信仰が基底としてある事は確かですが、論理的にその正当性を認めざるを得ない部分があると考えています。

 

なぜ人は独善的に生きるのか、人に対して無関心なのか、論理を無視するのか。

またなぜいじめが起きるのか、人を嫌いになるのか。

 

上記の様な、自他に対して感じる事の答えの糸口を見つけた様な気がします。

善悪について

パンフィリウスが真理の証明のためにユリウスに公開裁判、死刑を依頼をする場面ではこう語られています。

殺人、掠奪、窃盗、詐欺などというような、最も普通な、しばしば繰り返される犯罪は、自分の収入を増したいという人間の欲望から生じるものだ。

また別種の犯罪は放恣な欲情から呼びさまされる。たとえば嫉妬とか、復讐とか、動物的愛情とか、憤怒とか、憎悪とかいうものだ。

ここでは、犯罪の原点が欲望や欲情であること、そしてそれらがつまり悪であることが語られています。

 

また対話の中でこうも語られています。

われわれはただ人間の魂にのみ、生の意義と満足を見いだすものであるから、自分の情欲に奉仕することによっては、満足は得られないと信じている。

われわれは自分でも労働と愛の生活によって、情欲の駒をならしながら、自己の内部に精神的力を発達させている。 

つまり人間は欲望、情欲では満足を得られないという事が語られているわけですね。

 

この作品では悪に対する善として、愛と施しが描かれています。

 

愛の定義がこの作品では描かれていないため、一旦愛について考えてみます。

愛とはなんだと言われると難しいのですが、愛がある状態とそうでない状態では全く状況が異なってくると考えます。

 

理由を下記12に示します、例として友人関係を挙げてみたいと思います。

1. 行為と関係について

欲望なり衝動なり計画なり、何らかのきっかけで人は行為を行います。

 

友人関係の行為の例を挙げると、遊びに誘う、相談を聞く、寝食を共にするなどです。

この行為に関して自分と相手との関係が発生すると思っています。

 

例として、相談受ける側の人Aと相談をする側の人Bという二人の人を定義して考えてみます。

 

例えば悩めるBの相談を受けることによって

A = 相手の抱える問題に対して助言する存在

B = 相手に対して自分の抱える問題を告白する存在

という関係が成り立ってくると思います。

この関係をあるべき姿と呼ぶ事にします。

 

例に挙げたこの関係の間に欲望を絡ませて考えてみます。

A: 怠惰ゆえ、真剣に物事と向き合いたくないという欲望を持っている

B: 自分の考えを人に話したいという欲望を持っている

 

するとAは怠惰なので、Bの問題を解決する気はさらさらなく、ただ思った事をBに対して話します。

BはそんなAに対して軽蔑を覚えつつ、自分の抱える問題と自分が尊重する考えをAに対して話します。

しかしBは自分の尊重する考えを語りたいがために、Aの発言や自分の抱える問題の解決にならない様なことを語ります。

Bに対してAは軽蔑を覚えつつ、思ったことをただ口するだけなのです。

つまり欲望を優先する事で、あるべき姿は形なく失われてしまいます。

 

また欲望の優先を行うことによって、関係という物が、怒り、憎しみ、悲しみなどのパンフィリウスの語っていた放恣な感情に支配される事も一つの事実です。

 

例では友人関係を挙げましたが、家族、恋人、職場関係についても同じ事が言えると思います。

 

貧乏な家庭の子供が、親が金持ちだったらどんなにいいだろうと思い

その欲望を優先して口にすると親は悲しみ、傷を覚えます。

親が男の子が欲しいと女の子に対して口にすると子供は悲しみ、傷を覚えます。

 

つまり、利害関係に直面した際に他人の不快よりも自らの快を最優先した場合、自己と他者という関係があるべき姿とは違った形で形成されるという事です。

 

また、この何らかの欲望、快といった部分は誰しもが所有している事かと思います。

2. 愛について

しかし、愛によって自己ではなく他者を優先、尊重する気持ちを獲得できると僕は考えます。

 

例として、お母さんと赤ちゃんについて考えてみます。

例外は勿論ありますが、お母さんは赤ちゃんを誰に指示されることなく、必死に守り育てます。

妊娠中や出産後の子育て時に、辛いから逃れたいという願望を持っていてもです。

 

この守る、自己を劣後する関係というのは、愛によるものと考えることが出来ると思います。

 

ユリウスとパンフィリウスの結婚についての対話の中では、自己について語られています。

しかしキリスト教徒にとっては、そういう自己の選択なんてものはない。というよりむしろ自己のための選択、自己の個人的快楽のための選択は、第一に置かれないで、第二義的の位置をしめているに過ぎない。

自己一身の幸福のみを基礎としている結婚は、すべて不和の原因とならざるを得ない。

ここで語られている通り、自己一身の幸福のみを考える行為はあるべき姿という関係を破壊し、歪な物に変えてしまう。

 

愛によって、他者を尊重することで自己を劣後することで、欲望、悪から身を守り、関係をあるべき姿に近づけるというのは納得出来ます。

 

そう考えると、僕は過去に一般的に誰しもが経験した様な苦い人間関係を経験した事がありますが、愛の外にいたが為に起きた必然なのかなと今では感じます。 

科学、芸術について

僕はこの作品を読んで思った事が、趣味についてです。

僕は趣味を通じてこの作品に触れたり、様々な貴重な経験をしましたが

善を考えた場合に、僕の趣味は不要な物なのかが心配になりました。

つまり趣味は人間の欲求であるが為に、悪なのかという問いです。

 

この問いに対する答えがこの作品では書かれています。

 

ユリウスの必要以上の物を持たず、労働に勤しむキリスト教徒の生活に対する非難に対してパンフィリウスはこう返しています。

もし君がわれわれを目して、科学や芸術を認めないものと考えるなら、それこそ大間違いだ。われわれは人間の本性が有している天賦の才能を、すべて心から尊重しているのだ。

われわれは科学や芸術をも、単にひま人の娯楽にしかならない遊びにするわけにはゆかぬ。われわれは科学や芸術に対しても、あらゆる人間の仕事に対するものを要求している。

つまりこれらのものの中に、キリスト教徒のあらゆる行為を貫いている愛、神と隣人に対する実行的愛の実現を求めるのだ。

われわれが真の科学と認めるのは、われわれの生活をよりよくする上で役立つ知識のみだ。われわれが芸術を尊敬するのは、それがわれわれの思想を清め、魂を向上させ、労働と愛の生活に必要な力を補強してくれる場合に限る。

この作品で、情欲の駒をならすと言った表現や、冒頭のひま人の話など、人間が完全に掟を守る存在ではない、つまり人間が不完全であるという描写が描かれていると感じます。

 

人間が掟を尊重しながらも、掟を守り切れない存在だとしたら魂を向上させ、労働と愛の生活に必要な力を補強してくれるという表現は腑に落ちます。 

まとめ

この作品では原始キリスト時代に生きる悪としてのユリウス、善としてのパンフィリウスが描かれていて、この二人の間で行われる対話に真実が多く含まれています。

 

しかし宗教の知見を持たない僕としては、パンフィリウスの語る異教徒の敵意に対する姿勢など、さすがに同意できない部分はあったのですが、その理解の為に一般的な宗教について勉強してもいいのかなと思います。